小豆島


2015年1月27日

小豆島に来ています。
私の父方の祖父の実家は小豆島の中山という地域で水車を営んでいました。いわば「ルーツ探し」の旅です。
音楽や芸術に取り組む際に”オリジナリティー”ということがキーワードになることが当たり前の事実としてあります。そしてその”オリジナリティー”は「独自性」と訳され、「誰もやっていないこと」をやることを目指すべきとの方向で語られることがしばしばです。でもそもそも”オリジナリティー”の語源は"origin"(出自)です。「誰もやっていない」という他者との比較においてあるのではなく、「自分はどこから来たのか」ということを見つめることにこそ見えてくるのではないかと思ったりするのであります。

まあ、そんな表向きのテーマを抱えて、「水車好き」「歯車フェチ」「農村好き」「民具萌え」のおじさんは、ずっと来たいと思っていた小豆島に45年ぶりに来たというわけです。

小豆島到着一日目は、親戚と地域の歴史に詳しい方と一緒にさっそく土庄付近をうろうろしました。まずは小豆島「最後の水車大工」三浦さじろうさんが晩年に作った水車を見に行きました。「クモテ」(スポーク)のパターンが今までに見たことが無い形でした。歯車は「差し歯」式でした。
次に伝法川最下流から2番目の「外山水車」のあったお宅にお邪魔しました。今は水車の痕跡はほとんど無く、ご主人が「この辺にあった」と教えて下さいました。屋内設置型の上掛け水車で搗き臼2基と挽き臼3基があったようです(『讃岐の水車』峠の会編)。水路の跡が残っていて、250mほど上流の妙見淵から取水していたとのことです。石積みの水路跡に萌えました。外山さんによると水車は年中無休24時間稼働していたそうで、常に「シャバシャバ」と大きな音を立てていて、水車をやめることになった時は「本当にホッとした」そうです。都会に住む底の浅い「水車マニア」のセンチメンタリズムはみごと打ち砕かれるというわけです。
そしてかつての大鐸小学校跡に集められた大量の石臼を見せてもらいました。さすが素麺の島、粉挽き文化ですね。石臼の目のパターンからもインスピレーションもらった気がしました。





2015年1月28日

小豆島2日目は、いよいよ祖父の出身地である中山に行きました。小豆島に59あった水車の全てが伝法川とその支流である殿川沿いにあり、そのうち27が中山の殿川沿いにあったということです。
まずは殿川上流にある水神様を訪ねました。境内の石碑に大正六年三月、社殿新築を記念して「水車連中」として26名の名前が刻まれており、その中に「岡八次郎」という私のひいじいさんの名前を発見(正しくは八治郎なんですけど)。水車を営む人たちにとって水は命ですから水神様を「水車の神様」として信仰したのですね。「水車の神様」に「音楽水車プロジェクト」の今後の成功を祈りました。
そして地元の方に案内してもらって祖父の実家を見に行きました。家の後ろ側に水車があったということで、確かに裏手に水路の跡がありました。昭和30年頃に水車を撤去してからは水車場を素麺製造の作業場にしていたそうです。
次はひいじいさんの「岡八水車」の一つ上流にある「みこ水車」の跡を見に行きました。鉄製の水輪はほとんど朽ちていましたがかろうじて残っています。水車が設置された石積みの「つぼ」や水路跡、何らかのシャフトが通っていたと思われる木の台座などが残っていました。この台座は当時のグリスの跡が黒々とみてとれ、かなり萌えました。持ち主のお家の方(60代)の話しでは、まず湿らせた小麦を杵で搗き、そのあと臼で挽いた小麦は八角形のぐるぐると回転するフルイにかけたそうです。こどものころおばあさんとよく一緒に水車小屋に泊まって番をしたそうです。自分の家の水車以外にも近所の色々な水車小屋で遊んだそうですが、水車小屋の中は暗くて、暗闇の中ゴトゴトと歯車が回っていて「怖かった」そうです。
「みこ水車」の一つ上流にある「ぬしゃ水車」は対岸から見ました。写真ではわかりにくいですが水輪がかなり原型に近い形をとどめており、水輪の下の位置に水車からの水を川に戻す排水口が見えます。その穴の中ではウナギが捕れたので、よく中に入ったということです。
中山は「千枚田」と呼ばれる棚田で有名です。この傾斜地に石垣を築いてこれだけの棚田をつくった先人の苦労が偲ばれます。田んぼのシーズンは本当に美しいそうです。是非とも残してほしいですね。
ひいじいさん他ご先祖の眠るお墓にもお参りして、ここでも「音楽水車プロジェクト」の今後の成功をお願いしてきました。





2015年1月29日

小豆島3日目。
肥土山(ひとやま)の奥、銚子渓の下に砂防ダムに水位が低いときに姿を見せる水車があるという情報を得て行ってまいりました。道路わきに車を停め、ほとんど道無き道を薮をかき分けながら進みます。たくさんの足跡があるのだけれど明らかに人間のものでは無いものばかり。歩くこと20分、目的のダムに到着したら満水で水車はどこにも見つけられませんでしたが、水路跡や流し台のようなもの、水車の「つぼ」と思われる遺構がありました。人里離れた山奥の貯水池に半ば沈んだ形でひっそりと残る石積みの数々は、なんだかちょっと怖いようでもありました。ここまでくるとジャンルとしては「水車好き」とか「歯車萌え」というよりは「廃墟マニア」の領域です。

無事車に戻りふたたび中山に。前日対岸から見た「ぬしゃ水車」の持ち主の方にご了承を得たので敷地内に入らせてもらいました。恐らく小豆島に残る当時の水車としては最も原型に近い形をとどめている鉄製の水輪です。ここでも黒々としたグリスの痕跡に萌え。昔ウナギが捕れたのでよく中に入ったという排水口を間近で見ましたが、いくら子供でも中に入るのは難しい大きさでした。恐らくその後の護岸工事で一部を残して塞がれたのだと思われます。

「ぬしゃ水車」よりやや上流の殿川沿いに水車用の取水口の跡らしきものを見つけました。ほかにもそれらしきものはいくつかありましたが、これは多分間違いないです。堰堤からの水路は今はすぐに途切れていますが、かつて先まで続いていた痕跡が残っていました。

前日に訪れた私のひいじいさんの家に再び行き、水路跡を入念にたどりました。敷地内の水路跡は途中から暗渠になっていました!暗渠として道路の下を通った先の水路跡をさらに上流に向かってたどると、途中で鉄のパイプが別の水路の上を横切るところがありました。これが「岡八水車」を回す水を通すものだったのか、別の用途(例えば水道とか)に使われたものなのかはちょっとわかりません。そしてこの先は水路をたどることが出来ませんでした。

中山の農村歌舞伎舞台にも行きました。私の祖父は若い頃役者としてこの舞台に立っていたそうです。祖父とは小学校3年生から中学3年まで東京で一緒に暮らしていましたが、そんな話を聞いたことはありませんでした。中山農村歌舞伎舞台のわきから上がって行くと中山の千枚田。急な斜面に用水路が流れ、石垣で築かれた棚田が続きます。





2015年1月30日

小豆島4日目。
初日から2日間一緒に回ってくれた親戚(親父の従弟)のお家を訪ねました。昔のアルバムの写真見せてもらいました。真ん中の一番ちっこいのが私です。その後ろが父で左が兄です。そしてこの家の庭にもありました、唐臼の台座。
小豆島の最終日はみぞれまじりの冷たい雨が降っていましたが、名残惜しくじいちゃんの故郷中山へ。もやに包まれた棚田きれいだったけど寒かったぁ。






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